ちょいテレ・フル

家電を増やしたくないので、うちにはビデオがないです。

でもたまーにほしいと思うときがあって、その「たまーに」に見合うぐらいのハードルの低い対応手段があればいいなと思っていました。

世の中にはワンセグ録画という手もあるんかもしれへんけど、残念なことにうちではなぜかワンセグが入らない。

いろいろ検討してみると、すでにあるパソコンをビデオに仕立ててしまうのが一番お手軽そうです。

ということで、

これを買ってみました。

製品写真ではアンテナがついているけど、これを抜いてテレビに入ってきてるアンテナケーブルと直接つなぎます。

そして貧弱スペックの非常用サブノートのEeePC901-Xに差して試してみました。

内蔵ドライブが4GB+8GBなので、ここへの録画は無謀。32GBのUSBメモリを差して、そこを保存先にしてみます。
(1ファイルの容量が4GBを超えそうなので、NTFSでフォーマット。)

たぶん書き込み速度が追いつかないだろうと思いつつ、寝ている間にだめもとで深夜番組を予約録画してみたら、これが何の問題もなく撮れています。しかも画質はDVDよりきれい。

容量は、30分で4GBぐらいでした。なので32GBだと4時間ぐらい。

これ全然いけるやん!!

ということで、4月から深夜枠に行ってしまった青春リアルと、GW旅行で見逃したもしドラの深夜の再放送を撮ってみます。

あ、今日で日記さんも11歳!

梅雨どきのイベント

6月は不定期に休日出勤が入りそうで、しかも早くから
梅雨入りしてしまって、フットワークが重くなりがちです。

そういえば、そろそろホタルのシーズン。

これまで住んでいたところはどこも田舎だったのに、
ホタルが飛んでいるところを今まで見たことがないです。

山口県にはけっこういるみたいなので、今年は見に
行かなくては!

あと、今ごろの時期に天然記念物のクサフグが産卵に
やってくるそうです。

潮の満ち引きの具合で産卵時期が決まるみたいで、毎年
産卵日時の予測が発表されると聞いてたけど・・・

情報去年のままやん><

ETCの高速上限1000円ももうすぐ終わってしまうので、
遠出もしておきたいし・・・

2030年

いつのまにかNHKオンデマンドで「ふしぎの海のナディア」が
配信されていて、配信期限が2030年になっていました。

2030年って、もう定年近いなあ・・・

あんまり数字として意識したことがなかったけど、今の
日本人の平均寿命まで生きても2050年ぐらい。

なんとなく22世紀を見る気まんまんで過ごしていたけど、
意外と未来のできごとを知らずに自分は死んでいくんやなあ。
自分だけじゃなくて、今地球上にいる人のほとんどは
22世紀にはもういないんやわ。

ということを思いながら今日は目が覚めました。

画期的なコピー対策(草案)

最近NHKオンデマンドでスタンフォード白熱教室を毎週
見ています。ハーバードの政治哲学のとはちがって、
こっちは「いかにアイデアを出すか」みたいな理系っぽい
話です。

その中で

「試作品は不完全でもできるだけ早く作ること」

という話が出てきました。

試作品かあ・・・穴だらけなのはわかっているけど、
旅行中にふと思いついたことをちょこっと出してみます。
何かのたたき台ぐらいにはなるかも。

音楽とかソフトがコピーされて、がんばって作った人の
もうけがなくなっているという話があるけど、これを
解消する画期的な方法です。

いくらコピーが蔓延する世の中になっても、コピー元の
1ライセンスは売れているはずです。

なので、その1ライセンスだけで勝負するのです。

その代わり、この1ライセンスを法外に高くします。

そして、これをほしいと思う人を募って、お金を出し合って
買ってもらいます。あとはいくらコピーされようが放置。

このしくみの中で、値段に市場原理を反映させる何かいい
方法があるような気がするけどまだ思いつきません。
思いつくまでメモの中で寝かせておこうと思っていたけど、
空気にさらさないとカビそうなので。

正解のない問題って?

学校では正解のある問題を相手にして、
社会では正解のない問題を相手にする。

という言い回しをよく聞くけど、なんかいつも違和感を感じてしまいます。

学校と社会に出てからがちがうのはわかるけど、「正解のありなし」がそのちがいの本質なのか?

この言い回しの裏にある「だから学校で習ったことなんて役に立たない」ということを言いたいがための、体(てい)のいい言い訳じゃないのか?

と思うんです。

学校と社会に出てからのちがいの本質は、

「目的設定に自分が責任を持つか持たないか」

じゃないかと思っています。

目的に向かうということについては、学校でも社会に出てからも変わるものではない。その目的に近づくためのよりよい手段をさぐるということも変わらずやることになる。その取りうる「よい手段」のことを「正解」と呼ぶなら、どちらにだって正解はある。だから学校での手段さがしのトレーニングが社会で生きる場面もある。

対して、「塩水の濃さを求める」みたいな問題(=目的)設定は、別に学生自身が欲しているわけじゃなく、誰かがお膳立てをしたものです。

社会に出てからは、目的設定は自分でやることになります。会社方針みたいな形で、「お膳立て」がまったくないわけではないけど、少なくとも選択責任は自分にある。

学校はいろんな意味で「お膳立て」そのものをなりわいにしているところなので、「お膳立てをいらなくするトレーニング」を学校に期待するのはあまりいい方法ではないと思ったりしています。