なぜがさね

よく子供の科学教育の話とかで、

「なぜと疑問に思う心が大切です。」

みたいな言葉をたまに聞きます。その気持ちはよくわかります。

では逆に。

なぜと問うことを、なぜ途中でやめてしまうのか?

・・・

晴れた日は空が青いです。

ここでさっきの言葉に従うと「なぜ空は青いんだろう?」ということになったりします。すると

太陽の光がこう入って、このへんの物質でこう反射とか屈折とかすることで、青に見える何ナノメートルの波長の光だけが目に届くから。

みたいな答えが出てきます。

「太陽の光はなんでこう入るの?」
「なんでそこにそんな物質があるの?」
「その波長の光はなんで青に見えるの?」

ここでもさっきの言葉に従うと、なぜの答えに対してなぜと問いを重ねることができます。しくみ的には果てがない。

そういう中でも

「その波長の光はなんで青に見えるの?」

こういうところに来ると、自分の知識では「だってそうなってるんだから」というしかないです。

答えが出ても必ず次があるし、繰り返してゆくと必ず「だってそうなってるんだから」の壁にはばまれる。

「だってそうなってるんだから」という答えで許されるとなると、最初の「なぜ空は青いんだろう?」に対しても「だってそうなってるんだから」でいいんじゃないかということにもなってしまいそうです。

「受け入れる」ということをした時点でなぜの連鎖は終わります。

受け入れられる範囲が広い人ほど連鎖の終わりは早く、せまくなるほど連鎖は長く続きます。

・・・

「なぜと疑問に思う心が大切です。」

これを受け入れられる人は、

「受け入れられる範囲を小さくすることが大切です。」

これを受け入れることができる人ではないかと思います。

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