「それをやって何の意味があるの?」
というような発言をたまに聞きます。
それは「その行為は何かの手段になっているか?」と
言い換えられそうです。
そのせりふの根底には、「人間の行為はすべて何かの
手段になっているべきだ」という思いがあることも
ありそうです。
でもそれはちょっとおかしい。
手段というのは、目的があってのもの。
手段となる行為はもちろんあるけれど、対になるように
目的となる行為もあるわけです。
目的となる行為そのものをしているときに、そこで
「なぜ?」「何の意味があるの?」という問いを
かけても答えはないはずです。
参考:
▼「なぜ?」の繰り返しの終わりは人の裁量で決めるもの。
- 日記さん なぜがさね
▼人生の「なぜ?」の終わりを仮で用意してくれるのが宗教。 - 日記さん 教えを守り広める人
数学の証明の世界でも、「なぜ?」は原理的に無限連鎖
してしまうので、それを解決する(あきらめる?)ために、
これ以上「なぜ?」を問わないことにする終点を「公理」
として定めています。
「それをやって何の意味があるの?」
の繰り返しにも、必ず答えのない終わりを定める必要が
あって、それを公理の代わりに「目的」と呼んでいる
わけです。
・・・
すると、カレンダーを2色に塗り分けることができそうです。
手段色と目的色。
仮に「大きな魚を釣ること」を人生の目的としていたら、
そのために本を読んだり、いいサオを買ったりした日は
手段色に塗る。
大きな魚を釣った日には、目的色に塗る。
目的をいろいろに設定すると、何かの目的が別のことの
手段になっていたりして、両方の色がまざる日もあると
思うけど、そういうときは両方の色を塗る。
あなたはカレンダーにどのぐらい目的色を塗れそうですか?
・・・
まわりとの接触を断って、ゲームばかりしていた時代は
どっちの色に塗ったらいいんやろ?
何かの手段にしようとは思っていなかったので、
目的色に塗ってしまえばいいんかな?
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