偏見

たとえば駐車場に車が止まっていれば、その中にはガソリンがあると思ってしまう。

ではこの車はどうか?と1台と向き合うことになると、ある程度は入っているだろうという気持ちからスタートして、メーターを見たりして、満タンに近いとか完全にからっぽだったとかがわかる。

そもそも車に乗らない人であれば、駐車場の車にガソリンが入っていようが入っていまいが気にならない。

改めて「この車たちの中に、ガソリンがないものもあると思うか?」と問われると、そのとき「ないものもあるかもしれない」と考えるが、確かめるまではある程度入っているというところからスタートする。

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こんなふうに「個別の現実を確かめるまでの印象のスタート位置」は必ず何に対しても持っているはずで、それが偏見と呼ばれているものなのだと思います。

だとすると、「偏見がだめ!」といわれても、全知全能にならない限り解消しません。

「自分は偏見を持っていない」という人もいるけれど、それは偏見を持っていないのではなくて、「印象のスタート位置を表明しない」という意味なんだと思います。

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