正解のない問題って?

学校では正解のある問題を相手にして、
社会では正解のない問題を相手にする。

という言い回しをよく聞くけど、なんかいつも違和感を感じてしまいます。

学校と社会に出てからがちがうのはわかるけど、「正解のありなし」がそのちがいの本質なのか?

この言い回しの裏にある「だから学校で習ったことなんて役に立たない」ということを言いたいがための、体(てい)のいい言い訳じゃないのか?

と思うんです。

学校と社会に出てからのちがいの本質は、

「目的設定に自分が責任を持つか持たないか」

じゃないかと思っています。

目的に向かうということについては、学校でも社会に出てからも変わるものではない。その目的に近づくためのよりよい手段をさぐるということも変わらずやることになる。その取りうる「よい手段」のことを「正解」と呼ぶなら、どちらにだって正解はある。だから学校での手段さがしのトレーニングが社会で生きる場面もある。

対して、「塩水の濃さを求める」みたいな問題(=目的)設定は、別に学生自身が欲しているわけじゃなく、誰かがお膳立てをしたものです。

社会に出てからは、目的設定は自分でやることになります。会社方針みたいな形で、「お膳立て」がまったくないわけではないけど、少なくとも選択責任は自分にある。

学校はいろんな意味で「お膳立て」そのものをなりわいにしているところなので、「お膳立てをいらなくするトレーニング」を学校に期待するのはあまりいい方法ではないと思ったりしています。

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