個人的にはコーヒーの味のちがいはあまりわからないけれど、コーヒー会社には味覚のプロがいて、その微妙な調整がコーヒーの売り上げに影響するのだそうです。
昔、暴力的なゲームが暴力事件の増加につながっているんじゃないかみたいな話がありました。
この話に対して「自分は現実とゲームの区別がつかないなんてことはない!むしろゲームで欲求不満が解消されることもあるだろう。だからそれはうそだ!」と反論する人が多かったけど、ことの真偽はともかく、その反論のしかたはちょっとおかしいんじゃないかと思うようになりました。
「自分にはコーヒーの微妙な味のちがいなんてわからない!嫌いだっていう人もいるかもしれない。だから微妙な味の調整が売り上げアップに貢献することなんてない!」とは言えないので。
小石が敷き詰められたいすの上に、そっと追加で小石を落とす。
もとあった小石は、ある決まった方向だけじゃなく、四方八方いろんな方向にちょっとだけ動かされる。
「好き」という人もいれば「嫌い」という人もいるように、さまざまな反応がそこに起こる。
そしていすのへりにあった小石のうち、運の悪いものはそこから落ちる。
コーヒーの味の調整や、暴力的なゲームって、この追加の小石みたいなイメージじゃないかと思っています。
ゲームと事件の関連に反論をしたいのなら、「私はへりにいない」とか「へりとは逆の背もたれ側にも人はいる」ということを言っても意味がなくて、「へりには誰もいない」ということを言う必要があるんじゃないかと思います。
コメント